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そしてバッハに帰る

何年か前に映画『そして父になる』を観ていた時のこと。

 

胸がしめつけられるような話が終わり、エンディングにバッハが流れてきた。

 

ピアノ演奏と共に、独特の演奏に合わせた唸るような声……

 

それは、グレン・グールドの弾く『ゴールドベルク変奏曲』のアリアであった。

 

 

話はさかのぼり、小中学生の時、クラシックピアノの練習に明け暮れていた頃。

 

どのピアノの先生についても、必ずバッハの曲が練習のセットリストに入っていた。

 

当時、私はなんでバッハをそんなに弾かなければならないのか腑に落ちていなかった。

 

言われたまま練習していた為、『なぜバッハを?』という疑問の余地すら無かった。

 

大人になってからふと疑問に思って、音大ピアノ科の友人に尋ねた。

 

作曲においても演奏においても、全てにおける基礎がバッハにあるから、という答えだった、と思う。

 

 

 

初めて愉和法の整体を受けた時、12月の先生の部屋では、バッハの『マタイ受難曲』が流れていた。

 

なぜそれが『マタイ受難曲』かと分かったかと言えば、実際に演奏を聴きに行ったことがあるからだ。

 

繰り返される重々しいテーマと、とにかく長いイエス・キリストを巡る物語に、10代の私は椅子から立ち上がりたいのを我慢して聴いていた。

 

そんな私におかまいなしに、演奏の終盤、母と祖母は手を取り合って涙を流していた。

 

2人を横目に、「天国が近くなると、バッハの良さがわかるのかしら」とぼんやり思った。

しかし、やはりその頃、バッハの良さはつゆほども分からなかったのである。

 

 

 

そして34歳の私は、今、毎日のようにバッハを聴いている。

 

野口晴哉氏の著書でお馴染みパブロ・カザルスも抒情的で、古い録音の為レコードを聴いているような味わい深さがあるのだが、同じ無伴奏チェロなら、鈴木秀美さんのバロックチェロによる演奏もピッチが低めでとても落ち着く。

 

施術の際の音楽としても愛用している。

 

 

一方、グレン・グールドは聴いていて落ち着かない(笑)

 

平たく言うとテンポ、強弱、奏法のクセが強い。

 

しかも演奏がのってくると彼自身が大切にしたい旋律部分をハミングしてしまうものだから、CD音源には多く、ピアノの音とグールドの唸り声(ハミング)が入っている。

 

なのに1つ1つの音の粒が美しく立っていて、思わず聞き入ってしまう。

 

バッハといえば宗教色が強かったり、静謐なイメージがあるのだが、グールドの演奏を聴いていると、こんなに多彩で無限の可能性があるのかとワクワクする。

 

youtubeなどでグールドの演奏動画を見ていると、1音1音への入魂の度合いがどれだけ深いか分かって頂けると思う。

 

 

 

まあつらつらと書いているが、私はクラシック音楽愛好家でもなければバッハの愛好家でもない。

 

なのになぜ今バッハを聴いているのかと掘り下げてみれば、『型』を感じるからである。

 

 

前出の友人はバッハには全ての音楽の基礎がある、と言った。

 

基礎とは『型』であり、『型』を追求することの重要性、美しさをバッハを聴くことで感じられるのだ。

 

空手などのスポーツ、歌舞伎などの芸術、全てのものに型があり、『型』を追求して追求して【私】が無くなったところに独自の美しさや繊細なものが立ち昇ることがある。

 

または急に空間が広がり、そこから宇宙空間へつながっているような感覚を得ることもある。

 

私のしている整体は、身体からの反応をただひたすら指の感覚で追い、それに触れて、また変化を追う、という地味だけど感覚を研ぎ澄ます作業の繰り返しだ。

 

ちょっと『型』に近いものがあると勝手に思っている。

 

また、身体にどうなってほしい、とか、どうしてやろう、との【私】をはさむ余地もない。

 

この地味な作業の繰り返しが、感覚の作業が、バッハを聴いているとはかどる。

 

そして、バッハを愛する演奏者たちにどこか共鳴する部分を感じる。

 

どこまでも奥行きがあって、やってもやっても到達しない感じがするのも、また良い。