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見る、ということは

お客様の育てた可愛いかぼちゃと白茄子
お客様の育てた可愛いかぼちゃと白茄子

 

以前、野口整体の道場に通われている方とお話した時

 

「今こうして、あなたを見ていることが、もう既に愉気していることなのです」

 

と、言っていた。

 

見る、ということは気の集中であるので、なるほどそうかもしれない、となんとなく理解していた。

 

 

 

 

子どもを育てていると、「ねぇ、ママ、見て見て!」と言われる機会がよくある。

 

これは、子どもからしたら気の集中の要求である。

 

うるさがって放っておくと、今度は怒られることをしてまで気を引こうとしてくるのだろうな、と容易にわかるので、できる範囲で目と気を向ける。

 

そのおかげか、息子は今のところ余計なひと暴れや破壊行動、必要以上に泣いてみせることはない。

 

ただ、転んだり、どこかを強くぶつけたりした時は、痛い部分に私の手を持っていく。

 

ぴたっとしたところへ手を持っていかないと、「そうじゃない!こうだよ」と場所と角度を細かくダメ出しするので、私も手を当てる時はいつも本気である。

 

余計な言葉は何もかけなくても、子どもに本気が伝われば、じきに自分から手をどけて1人で遊びだす。

 

 

 

おやつを前に無音の「待て」
おやつを前に無音の「待て」

 

愛犬のイブちゃんは、「待て」を無音で行うことができる。

 

普通は、おやつを手にしてから「お座り」「待て」と指示を出し、指示が守れたら「よし!」で犬がおやつに飛びつくのがよくあるパターンだ。

 

 

ところがうちの場合は、おやつを持つ、愛犬の目を見る、そこから勝手に「待て」が始まっている。

 

おやつを床に置いても、じっと目を合わせたまま、愛犬は指示を待っている。

 

「待て」を言うことなく目を見ていれば、おやつを食べることない。

 

しかし、おやつの匂いの誘惑がきついのか、だんだん後ずさりを始める。

 

誘惑に負けまいと後ずさっている愛犬が少し不憫になって、ようやく「よし!」と言うと、一生懸命おやつを食べ始める。

 

その姿を見て、犬もきっと、おやつをもらえることは嬉しいのだが、主人に見てもらえること=気を集中してもらえることが嬉しいのだな、といつも思う。

 

だって、あまりにも見つめ合っている時の目が嬉しそうにキラキラしてるから。

 

 

 

 

 

そして現在、整体の施術をしている時。

 

 

例えば後頭部の1点から足首の調整をしたい時。

 

以前はお客様の後頭部と足首の2点に触れようと、一生懸命に両手を伸ばし、力のかかった姿勢で施術していた。

 

見ることは気の集中だなと心身共に理解できた時、両手を広げて力むことをやめた。

 

片方は目で気を向けて、片方は軽く触れて調整する。

 

これでも問題なく施術は通る(体の流れは変化する)。

 

そして多分、本当は、見ることをしなくても、良い集中で意識を向ければ体は変化する。

 

手で触ることはわかりやすく気を向けること、そして体の変化をわかりやすく感じる為に行っていることであって、極めていけば、触らなくても整体はできてしまうのだろう。

 

ただ、それにはやはり、第一歩としての触れること、見ること、意識を向けることの感覚を研ぎ澄まし続けることが必要なのだと思う。